「人生の鑑(かがみ)は自分の子供、そう思って子供と向き合うこと。それが僕から若いお父さんお母さんに伝えたいメッセージですね」と、長渕さんはインタビュー記事の最後に締めくくっています。
これは、6月27日発売の『致知別冊「母」2022~子どもの心の才能を伸ばす「子育ての人間学」』に掲載されている記事のひとつで、連載「母を語る」。
そうなんです!!!
これまで広報PR活動チームのメンバーとして関わってきた本がついに発売。私たち広報チームのメンバーには一足早く届きました。
私と同年代(幼少期が昭和30年代)の長渕さんが母親に対してどのような想いを抱いてきたのか、とても興味がありました。
まだ戦後10年そこそこの時代。そんな世の中の状況さえ知らなかった幼少期、多くの家庭は貧しいのが普通だったのでしょう。私の家庭もそうでした。
長渕さんの家庭は、父親は警察官でほとんど家に居ない、母子家庭みたいなものだったので母親から影響を受けたと言います。
「どう振り返っても、母は僕の師ですね」と。
そんな長渕さんのDNAに刻み込まれているメロディーは、母親を通して聴いた童謡が影響しているのだとか。
夫婦喧嘩をすると、長渕さんを連れて家の近くにある小高い山の上に行き、切り株に腰を下ろして童謡を歌ったりして、夕焼け空になるまで佇んでいたそうです。
子供が小さいときは、父親と喧嘩しても母親はいつも子供といっしょなんですね。私にも似たような思い出がかすかにあります。
長渕さんの母親は大腸がんの手術後、抗がん剤の副作用で認知症を患い、症状が悪化。
母親を看てあげたかったけど、当時30代の長渕さんは多忙で看てあげられない。一度自宅に引き取って介護を試みたが、自分も過労で倒れてしまい、結局、預けざるをえませんでした。
なぜ助けられなかったのか、それだけが悔いることだと。
長渕さんのような超人気ミュージシャンでなくても、30代以降の男性は働き盛り。自分だけの力ではどうしようもありません。
当時はまだ「認知症」という名称はなく「痴呆症」と呼ばれ、介護保険制度(2000年に創設)などもないころ。どう対処したらよいのかわからないことも多かったように思います。
私にも長渕さんと似たような想いがあります。
私の母も認知症が進行して徘徊中に事故で亡くなりましたが、母の死がきっかけの一つとなり、その年の12月に私は10年以上勤めていた会社を退職しました。
あとから込み上げてきた想いは、どうせ退職するのなら半年でも1年でもいいからもう少し前に、母が生きているうちにいっしょにいてあげる時間をつくらなかったのだろうというもの。
ただ、長渕さんが凡人の私と違うのは、そのあとの行動です。
長渕さんはご両親が亡くなった後、お二人の生きた鹿児島の痕跡を旅して回ったり、医師の先生といっしょにインドを旅したり、僧侶の先生から教えを受けたり・・・
詳しくは本を読んでからのお楽しみということで。
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